オイルショックのときに店頭からトイレットペーパーが消えるという騒動が起きたが、今回の新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、再び庶民の間でパニックが起きている。
ここ数日は、通勤途上で見かけるドラックストアの棚に少しだけ残っている光景を確認できるが、相変わらず品薄状態であることには変わりない。
我が家には20巻ほどの在庫があるが、先日、妻の友人からとんでもない話が舞い込んできた。
なんと! そのお宅ではトレぺが数年分はストックされているというのだ。
これはどういうことだっ! と思って問いただすと、かつて(数年前)ネットで注文した際に、数量を間違えてクリックしてしまった結果、無駄に大量のトレぺを抱え込んでいたらしい。
腐るものでもないし、大きなお家なのでそのままにしていたら、今回のこの騒ぎ。あの時のミスのおかげで現在はトレぺに困っていないといいながら、「足りなくなったら、いつでも言ってね~」と面白おかしく話してくれた。
そんな話題を受けて、今日はトイレットペーパーの思い出を語ろうと思う。
秋田のトレぺ事情
もうずいぶん前のことだが、独身でまだ若かった私は毎日のように福富町のスナックバーに通っていた。そこは秋田県出身の初代(おばあさん)が経営する店で、その娘(当時40代かな)がカウンター内にいてすべてを切り盛りしていた。
この呑み屋は戦後、桜木町デパートで営業していたのだが、駅前の再開発でビルが撤去されることになり福富町に移転してきたという。2代目からはデパート時代の思い出のほかに、故郷の秋田での出来事をいろいろ聞かせてもらった。
そんな中の一つが、昆布事件のお話だ。
当時は戦後まもなくということもあり、秋田の田舎では生活物資が少なく、いちばん困っていたのはトイレで使う紙だった。もちろん今でいうトレぺなんかあろうはずもなく、安価な浅草紙すら手に入らない状況だったらしい。
そこで重宝したのが秋田産の昆布。詳しい話は記憶から薄れつつあるが、これを使ってお尻を拭いていたというのだ。
使用済みの昆布はそのままボットン式の便壺に捨てるのではなく、庭先でピンと伸ばし乾燥させ、充分乾いたところでバシっと叩くと黄色い粉末がパラパラと落ちる。それを再利用していたのだ。
ある日のこと、庭の向こうを通りがかった散歩中のおじさんが、そんなことも知らず垣根越しに声をかけてきた。
「なかなかいい昆布ですな。こりゃ旨い出汁が採れそうだね(秋田弁で)」
彼女はまだ小さな子どもだったから言葉を濁すなんてことはしない。どのように使っているかを話したら、おじさんはビックリして固まってしまったそうだ。
ま、そんな呑み屋での思い出のほかに、こんなのもあるよ。
シベリア鉄道車内トイレ事件
私がさらにもっと若いころの話。
旧ソ連時代のことだが、シベリアまでキャンプをしに行った。その旅程は横浜~(定期船)~ナホトカ~(シベリア鉄道)~ハバロフスク~(飛行機)~イルクーツク~(バス)~バイカル湖というもので、片道4日ほどかかったと思う。その間、いろいろなトイレに入ったが、まずビックリしたのがシベリア鉄道のそれ。
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さすがに定期船の中では粗末ながらトイレットペーパーが備えられていたけれど、鉄道の便所(あえてそう言わせていただく)では初めての体験に恐怖すら感じた。
ボットン式便器の横に置かれた箱に入っているのは、なんと! 週刊誌だった!!
柔らかそうな本文ページは使いつくされ、残っているのはグラビアページだけ!!!
こんなツルツルの紙で拭けるかっ!!!!
しかし、まさかこんなことがあるとは思ってもいなかったから、ティッシュなんか持ち込んでいない。もう、これしかないのね……。
週刊誌からちぎっては両手で揉みほぐし、少しは柔らかくするのだが、皆さんの想像どおり何度拭いてもきれいにならない。
結局、10枚くらい使ったかな。それで十分だったのかどうか分からないまま、私は便所をあとにしてコンパートメントに戻った。
ハバロフスク公衆便所事件
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シベリアの夕焼け
さて、ナホトカから乗ったシベリア鉄道は夜通し走り続け、昼ごろハバロフスクに到着した。当時のソ連では目的地まで簡単に、自由に行くことはできない。一刻も早くバイカル湖へ向かいたいのに、この街で一泊し市内観光をさせられてしまった。
貸し切りのバスで博物館や史跡などを巡るのだが、当然その途中でトイレに行きたくなる。前日、鉄道車内でしこたま呑んでいたからこの日は腹の調子がおかしい。下痢気味なのだった。
もう、どこの場所だったか覚えていないが、みんながバスを降ろされてどこかを見学に行っている間を利用して、私は街中の公衆トイレを探しに出かけた。
やっと見つけたのは広場から少し離れた場所だった。しかしホッとしたのも束の間、個室を見てビックリしてしまった!
な、な、なんとドアがない! しかも壁に向かってしゃがむのではなく、通路側に向かってしゃがむ構造!! さらに「金隠し」もない!!
そこでバッグの中に忍ばせていた新聞紙を縦長に広げて読むふりをする。ひと通り新聞を眺めたあとはそれをちぎってトレぺ代わりとした。
お腹もスッキリし、みんなが集合する場所に戻ると、嗚呼……なんてことだ!
バスは発車して走り出しているところだった。私を置いたまま……。
こんなところで置いてけぼりにされたら、自分はどうやって日本に帰るんだ!
シベリアでホームレスになるのか!
叫びながらバスを追いかけると、車内の誰かが気がついて戻って来てくれたのである。
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あそこで置き去りにされていたら、そのまま街に居ついてどこかのジェーブシカと結婚し、今頃は帰国を望みながら老後を送っているかもしれないな……
昨今のサハリントイレ事情
10年ほど前のことだが、サハリン(旧樺太)を訪れる機会があった。あちらではビールやウオッカなどの酒類、採りたての魚介類、キノコなどを愉しむことの他に、現代のトイレ事情の観察も大きな目的の一つであった。
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これはフェリーが到着したコルサコフ(旧大泊)港の公衆トイレ。横浜でよく利用するそれらよりも、はるかにきれいだ。
それはそうだと思う。外国から大勢の人たちが入ってくる玄関なんだからね。
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こちらは港から滞在先に向かう途中で入ったトイレ。もう場所を忘れてしまったが、どこかの商業施設かホテルだったと思う。
ご覧のとおり非常にきれいで清潔感がある。ただし、難点はトレぺがないこと!
この時はちゃんとペーパーをポケットに入れていたから問題はなかった。
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上のトイレは公共の場でのものであるが、こちらは一般民家のトイレ。日本のようなロール式のトレぺはなく、ポケットティッシュが籠に入れられていた。
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そして最後、ここはチェホフ市(もしかしたら町か)の港近くで入った公衆トイレ。
ソ連時代と変わらず個室のドアは無し。しかも向きは昔と同じ、通路に向かってしゃがむタイプ。
そして紙がない……。
さらに、水洗式の水が出ない……。
なので備え付けのバケツに入った水を使うようになっている。
しかし初めてのことだから流儀が分からない。ちょっとだけ流したって効果はなかった。かなり上の方からザ~っとこぼすように投下するしかないのだ。
そうすると、水がバチャバチャと跳ねる。
すごいトイレだったが、あれから10年以上は経っているから、今ではまともなっているのかな。
なんだか、もう一度確認しに行きたくなってきた。
←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね
ここ数日は、通勤途上で見かけるドラックストアの棚に少しだけ残っている光景を確認できるが、相変わらず品薄状態であることには変わりない。
我が家には20巻ほどの在庫があるが、先日、妻の友人からとんでもない話が舞い込んできた。
なんと! そのお宅ではトレぺが数年分はストックされているというのだ。
これはどういうことだっ! と思って問いただすと、かつて(数年前)ネットで注文した際に、数量を間違えてクリックしてしまった結果、無駄に大量のトレぺを抱え込んでいたらしい。
腐るものでもないし、大きなお家なのでそのままにしていたら、今回のこの騒ぎ。あの時のミスのおかげで現在はトレぺに困っていないといいながら、「足りなくなったら、いつでも言ってね~」と面白おかしく話してくれた。
そんな話題を受けて、今日はトイレットペーパーの思い出を語ろうと思う。

もうずいぶん前のことだが、独身でまだ若かった私は毎日のように福富町のスナックバーに通っていた。そこは秋田県出身の初代(おばあさん)が経営する店で、その娘(当時40代かな)がカウンター内にいてすべてを切り盛りしていた。
この呑み屋は戦後、桜木町デパートで営業していたのだが、駅前の再開発でビルが撤去されることになり福富町に移転してきたという。2代目からはデパート時代の思い出のほかに、故郷の秋田での出来事をいろいろ聞かせてもらった。
そんな中の一つが、昆布事件のお話だ。
当時は戦後まもなくということもあり、秋田の田舎では生活物資が少なく、いちばん困っていたのはトイレで使う紙だった。もちろん今でいうトレぺなんかあろうはずもなく、安価な浅草紙すら手に入らない状況だったらしい。
そこで重宝したのが秋田産の昆布。詳しい話は記憶から薄れつつあるが、これを使ってお尻を拭いていたというのだ。
使用済みの昆布はそのままボットン式の便壺に捨てるのではなく、庭先でピンと伸ばし乾燥させ、充分乾いたところでバシっと叩くと黄色い粉末がパラパラと落ちる。それを再利用していたのだ。
ある日のこと、庭の向こうを通りがかった散歩中のおじさんが、そんなことも知らず垣根越しに声をかけてきた。
「なかなかいい昆布ですな。こりゃ旨い出汁が採れそうだね(秋田弁で)」
彼女はまだ小さな子どもだったから言葉を濁すなんてことはしない。どのように使っているかを話したら、おじさんはビックリして固まってしまったそうだ。
ま、そんな呑み屋での思い出のほかに、こんなのもあるよ。

私がさらにもっと若いころの話。
旧ソ連時代のことだが、シベリアまでキャンプをしに行った。その旅程は横浜~(定期船)~ナホトカ~(シベリア鉄道)~ハバロフスク~(飛行機)~イルクーツク~(バス)~バイカル湖というもので、片道4日ほどかかったと思う。その間、いろいろなトイレに入ったが、まずビックリしたのがシベリア鉄道のそれ。

さすがに定期船の中では粗末ながらトイレットペーパーが備えられていたけれど、鉄道の便所(あえてそう言わせていただく)では初めての体験に恐怖すら感じた。
ボットン式便器の横に置かれた箱に入っているのは、なんと! 週刊誌だった!!
柔らかそうな本文ページは使いつくされ、残っているのはグラビアページだけ!!!
こんなツルツルの紙で拭けるかっ!!!!
しかし、まさかこんなことがあるとは思ってもいなかったから、ティッシュなんか持ち込んでいない。もう、これしかないのね……。
週刊誌からちぎっては両手で揉みほぐし、少しは柔らかくするのだが、皆さんの想像どおり何度拭いてもきれいにならない。
結局、10枚くらい使ったかな。それで十分だったのかどうか分からないまま、私は便所をあとにしてコンパートメントに戻った。


シベリアの夕焼け
さて、ナホトカから乗ったシベリア鉄道は夜通し走り続け、昼ごろハバロフスクに到着した。当時のソ連では目的地まで簡単に、自由に行くことはできない。一刻も早くバイカル湖へ向かいたいのに、この街で一泊し市内観光をさせられてしまった。
貸し切りのバスで博物館や史跡などを巡るのだが、当然その途中でトイレに行きたくなる。前日、鉄道車内でしこたま呑んでいたからこの日は腹の調子がおかしい。下痢気味なのだった。
もう、どこの場所だったか覚えていないが、みんながバスを降ろされてどこかを見学に行っている間を利用して、私は街中の公衆トイレを探しに出かけた。
やっと見つけたのは広場から少し離れた場所だった。しかしホッとしたのも束の間、個室を見てビックリしてしまった!
な、な、なんとドアがない! しかも壁に向かってしゃがむのではなく、通路側に向かってしゃがむ構造!! さらに「金隠し」もない!!
そこでバッグの中に忍ばせていた新聞紙を縦長に広げて読むふりをする。ひと通り新聞を眺めたあとはそれをちぎってトレぺ代わりとした。
お腹もスッキリし、みんなが集合する場所に戻ると、嗚呼……なんてことだ!
バスは発車して走り出しているところだった。私を置いたまま……。
こんなところで置いてけぼりにされたら、自分はどうやって日本に帰るんだ!
シベリアでホームレスになるのか!
叫びながらバスを追いかけると、車内の誰かが気がついて戻って来てくれたのである。

あそこで置き去りにされていたら、そのまま街に居ついてどこかのジェーブシカと結婚し、今頃は帰国を望みながら老後を送っているかもしれないな……

10年ほど前のことだが、サハリン(旧樺太)を訪れる機会があった。あちらではビールやウオッカなどの酒類、採りたての魚介類、キノコなどを愉しむことの他に、現代のトイレ事情の観察も大きな目的の一つであった。

これはフェリーが到着したコルサコフ(旧大泊)港の公衆トイレ。横浜でよく利用するそれらよりも、はるかにきれいだ。
それはそうだと思う。外国から大勢の人たちが入ってくる玄関なんだからね。

こちらは港から滞在先に向かう途中で入ったトイレ。もう場所を忘れてしまったが、どこかの商業施設かホテルだったと思う。
ご覧のとおり非常にきれいで清潔感がある。ただし、難点はトレぺがないこと!
この時はちゃんとペーパーをポケットに入れていたから問題はなかった。

上のトイレは公共の場でのものであるが、こちらは一般民家のトイレ。日本のようなロール式のトレぺはなく、ポケットティッシュが籠に入れられていた。

そして最後、ここはチェホフ市(もしかしたら町か)の港近くで入った公衆トイレ。
ソ連時代と変わらず個室のドアは無し。しかも向きは昔と同じ、通路に向かってしゃがむタイプ。
そして紙がない……。
さらに、水洗式の水が出ない……。
なので備え付けのバケツに入った水を使うようになっている。
しかし初めてのことだから流儀が分からない。ちょっとだけ流したって効果はなかった。かなり上の方からザ~っとこぼすように投下するしかないのだ。
そうすると、水がバチャバチャと跳ねる。
すごいトイレだったが、あれから10年以上は経っているから、今ではまともなっているのかな。
なんだか、もう一度確認しに行きたくなってきた。
