新型コロナウイルスの感染が拡大してきたにもかかわらず、パチンコ店がなかなか自粛要請に応じないため、業を煮やした大阪府知事が協力してくれないパチンコ店の店名を公表したという。
そんなことをすれば営業を続けている店に、パチンコ好きの人たちがどっと押し寄せるに決まっているじゃないか、そんなこと分かりきったことなのに…そう思っていたら、やっぱりね、こんなことになっていた。このあと、どうするんだろう……
実はわたくし、今でこそパチンコから遠ざかっているが、学生時代は週に3~4回くらい打ちに行くほどのマニアだった。同じ打つにしてもマージャンは弱かったけど、パチンコだけは無類の強さを誇っていたものである。
幼馴染の同級生と一緒に、いろいろな店に出入りしていたが、いちばん記憶に残っているのは岩槻市まで泊りがけで行った遠征。当時、岩槻はパチンコの街と言われるくらい盛んで、ここで勝負して大儲けをしようという計画だったのだ。
あの頃のパチンコは今と違い、左の掌に球を10個くらい載せて、親指で1個ずつ台の穴に送り込み、バネ式のフックのようなもの(名称不明)で弾くというアナログ形式だった。左手での送り込みと右手での弾く強さを微妙にコントロールしててっぺんの釘に向けて打つ。これを規則正しく続けるのは、もう職人技と言ってもいいくらいだった。
岩槻では毎日大儲けをし、二人して豪華な食材を買って自炊をしていた。もちろん酒など呑まず翌日の攻略法などを検討しながらね。
むかしのパチンコは台の裏が通路になっていて、おねえさんが常駐していた。球が引っかかって打てなくなったときなど、ガラス戸を叩いて球を外そうとするのだが、それでも落ちてこない場合は裏にいるおねえさんを呼んで直してもらっていた。
毎日こんな生活をしていると、次第におねえさんたちとも親しくなる。しかし根が真面目な二人だから呑みに誘うこともなく、店員とお客というだけの関係で1週間を過ごしていたのが、今から思うと非常に残念だったなぁと……。
結局この遠征でかなり稼いで帰宅したのであった。
その後も自宅の近隣でパチンコをしながら勉学にも励み、やっとの思いで就職することになったのだが、それでもパチンコは諦めきれず、仕事帰りや休日には打ち続けていた。うまくいけば退職してパチプロになろう、なんてことまで考えていた。
だが、しだいに仕事が忙しくなり、また就職同期の連中とのマージャンや呑み会などが増えてきたこともあって、パチンコからは遠ざかってしまったのである。
ということで、最近のパチンコ店自粛問題から、自分のパチンコ歴の一部をご紹介したのだが、ここからは昔あった中華街のパチンコ店について地図情報で確認してみようと思う。私の記憶では昭和50年代までしか遡れないので、やはりこういう時は地図が役に立つのだ。
平成26年(2014)、市場通りに「北京烤鴨店」という新店がオープンした。この場所にはゲームセンターがあったのだが、それが撤退したあとにこの専門店が入ったのだ。
この場所こそ中華街における大型パチンコ店の聖地だったのである。
市場通りの変化を年代順に確認してみよう。
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昭和31年(1956)、この場所には「二葉図書社」、「花王美容院」、どこかの「宿舎」、そして民家が一軒あった。周囲には生鮮三品や食品、雑貨などを扱う店が並んでいる。まさに「市場通り」だっことが分かる。
右の地図は昭和34年(1959)。「二葉図書社」は「二葉靴店」に業態を変更している。美容院はなくなり空き家になった。
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昭和37年(1962)。空き家に入ったのが、なんと! 盆栽のお店「洗心園」! カッコ書きで(毛)と表示しているので、もしかしたら中国の毛さんが経営していたのかな。
しかし、昭和43年(1968)の地図からは消されて、なにかの建築が始まっている。
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昭和47年(1972)、建築されても使われなかったのか空き家になっている。
そして昭和51年(1976)、一帯が更地になり大きな開発が始まることを予感させる。
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左はその3年後の昭和53年(1978)だ。いよいよパチンコ店「ラスベガス」が出現!
2階はダンスホール「カサブランカ」が入っていたのか。(知らなかった…)
右は昭和57年(1982)。ダンスホール「カサブランカ」がディスコ「ミルキーウエイ」に変わった。当時はディスコが流行っていたからね。
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左は昭和60年(1985)の地図。パチンコ・ディスコには変わりがないけど、周囲のお店が結構変化している。
右の地図は平成元年(1989)。1階はパチンコ店のままだが、2階はディスコからビリヤードに転換している。ディスコの時代は終わったんだね。どちらも入ったことがなかったのが残念。
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左の地図は平成5年(1993)。はっきりと「ゲームコーナー ラスベガス」と記載されている。ということは、パチンコ店からゲームコーナーに転換したのは平成2年(1990)から平成4年(1992)の間だったのか。
右の地図は平成27年版なので、その中に描かれている情報はおそらく平成26年のものであろう。
「ラスベガス」としか書いていないが、ここは当時、ゲームコーナーの跡地だった。おそらく看板が残っていたからこの店名が記載されたのだと思う。ゲームコーナーが閉店したあと、小さな売店が入っていたり乗用車が格納されたりしていた記憶がある。
そこで、過去に書いた自分の記事を検索してみたら、どうやら平成19年(2007)頃に閉店したことが分かった。
そして現在は北京ダック店になっている。この店が結構大きいのは、こんな歴史があったからなのである。
中華街のパチンコ店といったら、ここだけではなかった。大通りにも2軒あったことが地図で確認できるよ。
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昭和31年(1956)の地図。パチンコ「興楽」は現在でいえば「同發菓子売店」のあたりだね。「新光映画劇場」の跡地には「同發新館」が建っている。だから同店で映画祭をやる意味があるのだ。
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パチンコ「有楽」。どちらも「楽」の字がつく。奇遇だな。
「中将湯」というのは銭湯だ。現在は食べ放題の「天鵬閣」が入っている。この通りは香港路と呼ばれているが、昔は風呂屋通りといっていたそうだ。
タイムマシンがあったら、ぜひともこの時代のこの町に行ってみたいなあ。。。![]()
ということで、長々と失礼しました。ステイ ホームだからね、こんな地図を見ながら楽しんでいただけたらと思います。
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そんなことをすれば営業を続けている店に、パチンコ好きの人たちがどっと押し寄せるに決まっているじゃないか、そんなこと分かりきったことなのに…そう思っていたら、やっぱりね、こんなことになっていた。このあと、どうするんだろう……
実はわたくし、今でこそパチンコから遠ざかっているが、学生時代は週に3~4回くらい打ちに行くほどのマニアだった。同じ打つにしてもマージャンは弱かったけど、パチンコだけは無類の強さを誇っていたものである。
幼馴染の同級生と一緒に、いろいろな店に出入りしていたが、いちばん記憶に残っているのは岩槻市まで泊りがけで行った遠征。当時、岩槻はパチンコの街と言われるくらい盛んで、ここで勝負して大儲けをしようという計画だったのだ。
あの頃のパチンコは今と違い、左の掌に球を10個くらい載せて、親指で1個ずつ台の穴に送り込み、バネ式のフックのようなもの(名称不明)で弾くというアナログ形式だった。左手での送り込みと右手での弾く強さを微妙にコントロールしててっぺんの釘に向けて打つ。これを規則正しく続けるのは、もう職人技と言ってもいいくらいだった。
岩槻では毎日大儲けをし、二人して豪華な食材を買って自炊をしていた。もちろん酒など呑まず翌日の攻略法などを検討しながらね。
むかしのパチンコは台の裏が通路になっていて、おねえさんが常駐していた。球が引っかかって打てなくなったときなど、ガラス戸を叩いて球を外そうとするのだが、それでも落ちてこない場合は裏にいるおねえさんを呼んで直してもらっていた。
毎日こんな生活をしていると、次第におねえさんたちとも親しくなる。しかし根が真面目な二人だから呑みに誘うこともなく、店員とお客というだけの関係で1週間を過ごしていたのが、今から思うと非常に残念だったなぁと……。
結局この遠征でかなり稼いで帰宅したのであった。
その後も自宅の近隣でパチンコをしながら勉学にも励み、やっとの思いで就職することになったのだが、それでもパチンコは諦めきれず、仕事帰りや休日には打ち続けていた。うまくいけば退職してパチプロになろう、なんてことまで考えていた。
だが、しだいに仕事が忙しくなり、また就職同期の連中とのマージャンや呑み会などが増えてきたこともあって、パチンコからは遠ざかってしまったのである。
ということで、最近のパチンコ店自粛問題から、自分のパチンコ歴の一部をご紹介したのだが、ここからは昔あった中華街のパチンコ店について地図情報で確認してみようと思う。私の記憶では昭和50年代までしか遡れないので、やはりこういう時は地図が役に立つのだ。
平成26年(2014)、市場通りに「北京烤鴨店」という新店がオープンした。この場所にはゲームセンターがあったのだが、それが撤退したあとにこの専門店が入ったのだ。
この場所こそ中華街における大型パチンコ店の聖地だったのである。
市場通りの変化を年代順に確認してみよう。

昭和31年(1956)、この場所には「二葉図書社」、「花王美容院」、どこかの「宿舎」、そして民家が一軒あった。周囲には生鮮三品や食品、雑貨などを扱う店が並んでいる。まさに「市場通り」だっことが分かる。
右の地図は昭和34年(1959)。「二葉図書社」は「二葉靴店」に業態を変更している。美容院はなくなり空き家になった。

昭和37年(1962)。空き家に入ったのが、なんと! 盆栽のお店「洗心園」! カッコ書きで(毛)と表示しているので、もしかしたら中国の毛さんが経営していたのかな。
しかし、昭和43年(1968)の地図からは消されて、なにかの建築が始まっている。

昭和47年(1972)、建築されても使われなかったのか空き家になっている。
そして昭和51年(1976)、一帯が更地になり大きな開発が始まることを予感させる。

左はその3年後の昭和53年(1978)だ。いよいよパチンコ店「ラスベガス」が出現!
2階はダンスホール「カサブランカ」が入っていたのか。(知らなかった…)
右は昭和57年(1982)。ダンスホール「カサブランカ」がディスコ「ミルキーウエイ」に変わった。当時はディスコが流行っていたからね。

左は昭和60年(1985)の地図。パチンコ・ディスコには変わりがないけど、周囲のお店が結構変化している。
右の地図は平成元年(1989)。1階はパチンコ店のままだが、2階はディスコからビリヤードに転換している。ディスコの時代は終わったんだね。どちらも入ったことがなかったのが残念。

左の地図は平成5年(1993)。はっきりと「ゲームコーナー ラスベガス」と記載されている。ということは、パチンコ店からゲームコーナーに転換したのは平成2年(1990)から平成4年(1992)の間だったのか。
右の地図は平成27年版なので、その中に描かれている情報はおそらく平成26年のものであろう。
「ラスベガス」としか書いていないが、ここは当時、ゲームコーナーの跡地だった。おそらく看板が残っていたからこの店名が記載されたのだと思う。ゲームコーナーが閉店したあと、小さな売店が入っていたり乗用車が格納されたりしていた記憶がある。
そこで、過去に書いた自分の記事を検索してみたら、どうやら平成19年(2007)頃に閉店したことが分かった。
そして現在は北京ダック店になっている。この店が結構大きいのは、こんな歴史があったからなのである。
中華街のパチンコ店といったら、ここだけではなかった。大通りにも2軒あったことが地図で確認できるよ。

昭和31年(1956)の地図。パチンコ「興楽」は現在でいえば「同發菓子売店」のあたりだね。「新光映画劇場」の跡地には「同發新館」が建っている。だから同店で映画祭をやる意味があるのだ。

パチンコ「有楽」。どちらも「楽」の字がつく。奇遇だな。
「中将湯」というのは銭湯だ。現在は食べ放題の「天鵬閣」が入っている。この通りは香港路と呼ばれているが、昔は風呂屋通りといっていたそうだ。
タイムマシンがあったら、ぜひともこの時代のこの町に行ってみたいなあ。。。

ということで、長々と失礼しました。ステイ ホームだからね、こんな地図を見ながら楽しんでいただけたらと思います。
