以前に中華街西門通りのことを書いたら、イサさんからいろいろとコメントをいただいた。昔、この辺にお住まいになっていたということで、どこになにがあったか、詳しく教えてくれただけでなく、中華街や港周辺が写っている映画のシーンまで送ってくれたのである。
映画の題名は『涙を、獅子のたて髪に』。イサさんが送ってくれた映画のシーンを見るにあたって、やはりあらすじを知っておいた方がいいと思うので、先にそれを示しておこうと思う。
この映画、私は観たこともないし、初めて聞く情報だった。その一場面に西門通りのレストラン「ニュー ミナト キッチン」が登場してしている。冒頭の画像がそれだ。
当時の地図上ではキッチンと表示されているが、実際の看板はケッチンと書かれている。レストランの左隣はクラブ「レッドシューズ」。右隣りはバー「プレイボーイ」。
現在、ミナトキッチンの跡は日昇商店という名の八百屋になっている。レッドシューズ跡はジャズバーの「ウインドジャマー」だ。
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これが当時の地図。西門通りにバー街の雰囲気が残っているのは、こういう歴史があったからなのね。このうち「チェッカーズクラブ」と「ストーククラブ」は入ったことがある。どちらもいい店だったよね。
関口豆腐店も十数年前まで残っていたと思う。
いま大きな駐車場になっている場所は、当時、横浜中央病院の附属看護学校だったんだね。この地図を見て初めて知ったよ。
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「ニュー ミナトキッチン」の窓にはメニューが書かれていた。
ビーフカツレツ・・・・50円
ハンバーグ・・・・・・・・80円
カキフライ・・・・・・・・100円
エビフライ・・・・・・・・300円
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ランチ・・・・・・・・・・・100円
インデアンライス・・80円
エビ炒飯・・・・・・・・130円
送っていただいた写真のなかには、中華街の他に港周辺の景色が映っているのがあった。
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これは水町通り。正面突き当りに見えるのはイギリス領事館だ。現在の横浜市開港資料館である。
右側に駐車しているのは、昔懐かしいオート三輪。カーブするときに曲がり切れずよく転んでいたよね。その三輪車の後ろのビルはシルクセンターか。
左側に写っているビルは、手前が昭和8年に建てられた元インド人クラブで、当時は「ダンハムビル」といったかな。佐野元春のレコードジャケットにも使われているよ。
その右隣、縦長の窓が特徴的な建物は、建築年不詳の元外国商社。昭和30年代には神奈川県職員寮となっていたが、昭和60年代の写真を見ると警友病院みなと寮という看板が出ている。
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シルクセンター。上層階はシルクホテルだった。泊ったことはないけど…。
地下には生糸取引所があったと思うが、記憶が定かではないなぁ。
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そして懐かしい「ホフブロウ」♪ 2、3回入って呑んだことがある。
このような建物たちを地図上で確認してみようか。
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昭和34年の明細地図である。
青色に塗った建物がダンハムビルで、ピンク色の部分が神奈川県職員寮だ。映画のシーンはこの道路からイギリス領事館方面を眺めている。
緑色に塗った小さな建物が、むかしの「ホフブロウ」だ。そして地図の右サイド上にシルクセンター。
ちなみに神奈川県職員寮の隣に「互楽荘」があった。ここで悲惨な事件が起きているのだが、ここでは書かない。いつか時間ができたら触れてみたいと思っている。
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昭和50年代の水町通りで輝いていたダンハムビルと神奈川県職員寮(この時は警友病院みなと寮)。
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平成4年(1992年)には、なんかのお店が入っていたと思う。
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警友病院みなと寮。こんなところに住んでみたかったなぁ…。
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昭和50年代のシルクセンター。赤丸で囲んだ小さな建物が「ホフブロウ」だね。
それにしても、この交差点はこんな変則的な構造で車の交差が複雑だった。
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アメリカ領事館。ついこの前まではホテル「モントレ」だったけど、5月末で閉館してしまったよね。
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山下公園前の歩道。ここでアイスクリームをよく買ったよなぁ…。そういえば公園の中にも売店や食事できる店があったはず。ストックを探してみたけど、その当時の写真がみあたらない。
かわりに、こんなのがあった。
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昭和59年(1984)頃の山下公園前。臨港鉄道の高架線が懐かしいねぇ。
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貯木場だ。サブが死体を捨てたのはこの海だったのかな。
映画を撮影した昭和30年代には、ご覧のように材木がぎっしり浮かんでいたのだが…
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この写真は昭和55年(1980)の貯木場。ほとんど材木がなくなっている。
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でも、現役らしい水門が2つあった、やがて……
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貯木場は埋め立てられ、広大な土地が出来上がった。その一画に水門が当時のままの姿で残されている。
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現在は訪れる人も少ないと思うが、跡地にはこんな風景が広がっている。電柱みたいなものは、かつてここに貯木場というものがあったことを示すモニュメント。
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スポットには「木のみなと」という名前が付けられている。
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映画には本牧の海も登場していたようだ。
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昭和34年から始まった根岸湾埋め立て工事のため、しだいに海は失われていき、昭和50年代にはこんな公園が出来上がった。
海を失った市民のために、その見返りとして本牧市民プールが造られたのだが、それも数年前から閉鎖されてしまった。
横浜市はその再整備事業を始めるようだが、入札がうまくいかないようだ。なにか起きているのかな…
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中華街西門通りの記事からここまで来てしまったが、自分自身、この数十年間を思い返すことができてよかったと思っている。
映画のシーンを送ってくださったイサさんに改めて御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
そうそう、最後に「ホフブロウ」の食べ物を載せておこうね。水町通りに移ってからのものだけどね。
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←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね
映画の題名は『涙を、獅子のたて髪に』。イサさんが送ってくれた映画のシーンを見るにあたって、やはりあらすじを知っておいた方がいいと思うので、先にそれを示しておこうと思う。
この映画、私は観たこともないし、初めて聞く情報だった。その一場面に西門通りのレストラン「ニュー ミナト キッチン」が登場してしている。冒頭の画像がそれだ。
当時の地図上ではキッチンと表示されているが、実際の看板はケッチンと書かれている。レストランの左隣はクラブ「レッドシューズ」。右隣りはバー「プレイボーイ」。
現在、ミナトキッチンの跡は日昇商店という名の八百屋になっている。レッドシューズ跡はジャズバーの「ウインドジャマー」だ。

これが当時の地図。西門通りにバー街の雰囲気が残っているのは、こういう歴史があったからなのね。このうち「チェッカーズクラブ」と「ストーククラブ」は入ったことがある。どちらもいい店だったよね。
関口豆腐店も十数年前まで残っていたと思う。
いま大きな駐車場になっている場所は、当時、横浜中央病院の附属看護学校だったんだね。この地図を見て初めて知ったよ。

「ニュー ミナトキッチン」の窓にはメニューが書かれていた。
ビーフカツレツ・・・・50円
ハンバーグ・・・・・・・・80円
カキフライ・・・・・・・・100円
エビフライ・・・・・・・・300円

ランチ・・・・・・・・・・・100円
インデアンライス・・80円
エビ炒飯・・・・・・・・130円
送っていただいた写真のなかには、中華街の他に港周辺の景色が映っているのがあった。

これは水町通り。正面突き当りに見えるのはイギリス領事館だ。現在の横浜市開港資料館である。
右側に駐車しているのは、昔懐かしいオート三輪。カーブするときに曲がり切れずよく転んでいたよね。その三輪車の後ろのビルはシルクセンターか。
左側に写っているビルは、手前が昭和8年に建てられた元インド人クラブで、当時は「ダンハムビル」といったかな。佐野元春のレコードジャケットにも使われているよ。
その右隣、縦長の窓が特徴的な建物は、建築年不詳の元外国商社。昭和30年代には神奈川県職員寮となっていたが、昭和60年代の写真を見ると警友病院みなと寮という看板が出ている。

シルクセンター。上層階はシルクホテルだった。泊ったことはないけど…。
地下には生糸取引所があったと思うが、記憶が定かではないなぁ。

そして懐かしい「ホフブロウ」♪ 2、3回入って呑んだことがある。
このような建物たちを地図上で確認してみようか。

昭和34年の明細地図である。
青色に塗った建物がダンハムビルで、ピンク色の部分が神奈川県職員寮だ。映画のシーンはこの道路からイギリス領事館方面を眺めている。
緑色に塗った小さな建物が、むかしの「ホフブロウ」だ。そして地図の右サイド上にシルクセンター。
ちなみに神奈川県職員寮の隣に「互楽荘」があった。ここで悲惨な事件が起きているのだが、ここでは書かない。いつか時間ができたら触れてみたいと思っている。

昭和50年代の水町通りで輝いていたダンハムビルと神奈川県職員寮(この時は警友病院みなと寮)。

平成4年(1992年)には、なんかのお店が入っていたと思う。

警友病院みなと寮。こんなところに住んでみたかったなぁ…。

昭和50年代のシルクセンター。赤丸で囲んだ小さな建物が「ホフブロウ」だね。
それにしても、この交差点はこんな変則的な構造で車の交差が複雑だった。

アメリカ領事館。ついこの前まではホテル「モントレ」だったけど、5月末で閉館してしまったよね。

山下公園前の歩道。ここでアイスクリームをよく買ったよなぁ…。そういえば公園の中にも売店や食事できる店があったはず。ストックを探してみたけど、その当時の写真がみあたらない。
かわりに、こんなのがあった。

昭和59年(1984)頃の山下公園前。臨港鉄道の高架線が懐かしいねぇ。

貯木場だ。サブが死体を捨てたのはこの海だったのかな。
映画を撮影した昭和30年代には、ご覧のように材木がぎっしり浮かんでいたのだが…

この写真は昭和55年(1980)の貯木場。ほとんど材木がなくなっている。

でも、現役らしい水門が2つあった、やがて……

貯木場は埋め立てられ、広大な土地が出来上がった。その一画に水門が当時のままの姿で残されている。

現在は訪れる人も少ないと思うが、跡地にはこんな風景が広がっている。電柱みたいなものは、かつてここに貯木場というものがあったことを示すモニュメント。

スポットには「木のみなと」という名前が付けられている。

映画には本牧の海も登場していたようだ。

昭和34年から始まった根岸湾埋め立て工事のため、しだいに海は失われていき、昭和50年代にはこんな公園が出来上がった。
海を失った市民のために、その見返りとして本牧市民プールが造られたのだが、それも数年前から閉鎖されてしまった。
横浜市はその再整備事業を始めるようだが、入札がうまくいかないようだ。なにか起きているのかな…

中華街西門通りの記事からここまで来てしまったが、自分自身、この数十年間を思い返すことができてよかったと思っている。
映画のシーンを送ってくださったイサさんに改めて御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
そうそう、最後に「ホフブロウ」の食べ物を載せておこうね。水町通りに移ってからのものだけどね。



