皆さん、担ぎ屋といったら何をイメージしますか?
祭り好きで、あちこちの御神輿を担いで回る人?
最近は町内が高齢化してきて、担ぐ人が減ってきているという。そこで御神輿大好き人間が各町内を助けに行くそうだ。そういう方々を担ぎ屋というらしい。
縁起などをひどく気にする人?
よくいますよね、靴は必ず左から履くとか言って縁起を担ぐ人。そういう方々を担ぎ屋ともいうらしい。
人をからかって騙す輩?
学生時代には“一杯食わす”という連中が多かったけど、ああいうのは、あまり担ぎ屋とは言わなかったなぁ。
終戦直後の買い出しの人々?
統制品などを買い集め、それらを担いできて売り歩いた人たちが多かったという。そういうのを担ぎ屋と言ったそうだ。
先日、伊勢佐木町で見たのはそういった人ではなく、昔懐かしい正統派の担ぎ屋のおばちゃんだった。
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昭和30年代から50年代くらいには、こういうおばさんたちが大勢いた。たいていは千葉県の農家の主婦で、中央線や京成電鉄などに乗って、東京の山の手から横浜方面まで自家生産の野菜などを売りに来ていたのだ。
昭和50年代に関内で見たおばさんは凄かった。高さ1メートルほどの荷物を2つも運んでいたのだ。
どうやって運搬するのかというと、関内駅のホームに2つ降ろしたら、一つを背負って階段下まで運び、コンコースに一旦置いておく。
すぐさま階段を昇りかえしてもう1個の荷物を背負って下に運ぶ。
このような作業を何回も繰り返していくと、やがて伊勢佐木町に至る。まるで尺取虫のような、気の遠くなるような運搬方法だったのである。
こういう光景をずっと眺めていた自分も、ずいぶんと閑人だったのね…
当時は、京浜東北・根岸線の車内には、数人でグループを組むおばちゃんたちが乗っていた。彼女たちにはテリトリーがあるようで、関内駅で降りる人のほかに、山手駅、磯子駅などに向かう人も。
降りた駅の先に広がる町の状況、居住者層はそれぞれ違う。だから運んでいる農産品も中身が少しずつ異なっているようだった。
山手駅でおりるおばちゃんの籠の中には、花が多かったように記憶している。
山の上はハイソな住宅街が広がっているので、花を買うお宅が多かったのかもしれない。
それにしても、あんな坂道をよく登って行ったものだ。
久しぶりに見た担ぎ屋のおばちゃんから、私の記憶装置はさらに回転し始めた。
そう、伊勢佐木町にはこういう担ぎ屋のほかにも、路上で商売や活動をする人々が多かった。
一番印象深いのは有隣堂横にいた靴磨きのお婆さん。500円でよく靴を磨いてもらったものだ。
その時聴いた身の上話。
もともとは暗闇坂の近くに邸宅を構えるお大尽の娘さんだったという。それが戦後、破たんしたかなにかで没落し、長いこと靴磨きをやっているの……云々。
実話なのかどうかは分からなかったが、靴を磨いてもらい、さらにこんな話まで聞かせていただいて500円というのは、なんだか得したような気分になったことを覚えている。
私はおばあさんの写真を撮っていなかったのだが、こちらの方が写真を残されている。
ウェルカムゲートの下でお好み焼きを売っていたおばさんもいたなぁ。どうしているんだろうか。
それから、1丁目のベンチに腰掛け、三味線を弾いていた若い女性。よく弦が切れるので釣り糸をコマに巻きつけて演奏していた。
ときどきプッツンといくと、釣り糸をシュルシュルって引っ張り出して張り直す。その技が凄かった。
野毛大道芸に出場するようお勧めしたのだが、どうなったのだろうか……
もちろんメリーさんも忘れられない存在だ。
彼女のことについては多くの方々が語っているので今さら書くことはないが、あまり知られていないと思われることを一つだけ。
メリーさんはよく港郵便局に来ていた。そこで私が見かけたのは、現金書留の封筒にお金を入れて封をし、どこかに送金しているという光景だ。
担ぎ屋のおばちゃんから、いろいろなことを思い出した。
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祭り好きで、あちこちの御神輿を担いで回る人?
最近は町内が高齢化してきて、担ぐ人が減ってきているという。そこで御神輿大好き人間が各町内を助けに行くそうだ。そういう方々を担ぎ屋というらしい。
縁起などをひどく気にする人?
よくいますよね、靴は必ず左から履くとか言って縁起を担ぐ人。そういう方々を担ぎ屋ともいうらしい。
人をからかって騙す輩?
学生時代には“一杯食わす”という連中が多かったけど、ああいうのは、あまり担ぎ屋とは言わなかったなぁ。
終戦直後の買い出しの人々?
統制品などを買い集め、それらを担いできて売り歩いた人たちが多かったという。そういうのを担ぎ屋と言ったそうだ。
先日、伊勢佐木町で見たのはそういった人ではなく、昔懐かしい正統派の担ぎ屋のおばちゃんだった。

昭和30年代から50年代くらいには、こういうおばさんたちが大勢いた。たいていは千葉県の農家の主婦で、中央線や京成電鉄などに乗って、東京の山の手から横浜方面まで自家生産の野菜などを売りに来ていたのだ。
昭和50年代に関内で見たおばさんは凄かった。高さ1メートルほどの荷物を2つも運んでいたのだ。
どうやって運搬するのかというと、関内駅のホームに2つ降ろしたら、一つを背負って階段下まで運び、コンコースに一旦置いておく。
すぐさま階段を昇りかえしてもう1個の荷物を背負って下に運ぶ。
このような作業を何回も繰り返していくと、やがて伊勢佐木町に至る。まるで尺取虫のような、気の遠くなるような運搬方法だったのである。
こういう光景をずっと眺めていた自分も、ずいぶんと閑人だったのね…
当時は、京浜東北・根岸線の車内には、数人でグループを組むおばちゃんたちが乗っていた。彼女たちにはテリトリーがあるようで、関内駅で降りる人のほかに、山手駅、磯子駅などに向かう人も。
降りた駅の先に広がる町の状況、居住者層はそれぞれ違う。だから運んでいる農産品も中身が少しずつ異なっているようだった。
山手駅でおりるおばちゃんの籠の中には、花が多かったように記憶している。
山の上はハイソな住宅街が広がっているので、花を買うお宅が多かったのかもしれない。
それにしても、あんな坂道をよく登って行ったものだ。
久しぶりに見た担ぎ屋のおばちゃんから、私の記憶装置はさらに回転し始めた。
そう、伊勢佐木町にはこういう担ぎ屋のほかにも、路上で商売や活動をする人々が多かった。
一番印象深いのは有隣堂横にいた靴磨きのお婆さん。500円でよく靴を磨いてもらったものだ。
その時聴いた身の上話。
もともとは暗闇坂の近くに邸宅を構えるお大尽の娘さんだったという。それが戦後、破たんしたかなにかで没落し、長いこと靴磨きをやっているの……云々。
実話なのかどうかは分からなかったが、靴を磨いてもらい、さらにこんな話まで聞かせていただいて500円というのは、なんだか得したような気分になったことを覚えている。
私はおばあさんの写真を撮っていなかったのだが、こちらの方が写真を残されている。
ウェルカムゲートの下でお好み焼きを売っていたおばさんもいたなぁ。どうしているんだろうか。
それから、1丁目のベンチに腰掛け、三味線を弾いていた若い女性。よく弦が切れるので釣り糸をコマに巻きつけて演奏していた。
ときどきプッツンといくと、釣り糸をシュルシュルって引っ張り出して張り直す。その技が凄かった。
野毛大道芸に出場するようお勧めしたのだが、どうなったのだろうか……
もちろんメリーさんも忘れられない存在だ。
彼女のことについては多くの方々が語っているので今さら書くことはないが、あまり知られていないと思われることを一つだけ。
メリーさんはよく港郵便局に来ていた。そこで私が見かけたのは、現金書留の封筒にお金を入れて封をし、どこかに送金しているという光景だ。
担ぎ屋のおばちゃんから、いろいろなことを思い出した。
