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横綱・大鵬の銅像 サハリン生家で除幕式

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 元横綱・大鵬の銅像が、出身地であるサハリンの生家跡地に建てられ、8月15日、除幕式が行われた。
 大鵬(納谷幸喜さん)は昭和15年、当時日本領だった樺太敷香、現在のサハリン州ポロナイスクにおいて、ウクライナ出身の父親ボリシコさんと日本人の母親納谷キヨさんの間に生まれ、5歳だった終戦の年の8月、北海道に引き揚げるまで現地で生活していた。


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 昭和15年というのは皇紀2600年だった。
 そのため、この年に生まれた子どもの名前には「紀」の字が付くことが多くみられるが、大鵬の本名である「幸喜」も、まさに「皇紀」と同じ発音ということで名付けられたそうだ。



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 以下は北海道新聞の記事(2001年2月)から要約。

 父親のボリシコさんは1885年か88年、ウクライナ東部のルノフシナ村に生まれ、帝政ロシア政府による極東への移住募集に応じた農民の両親とともに、サハリンに入植した。
 北サハリンの社会主義化が進んだ1925年、単身で日本治世下の大泊(コルサコフ)へ移った。
 28年、洋裁店勤務の納谷キヨさんと結婚し、翌年から敷香で牧場を経営した。


 潜って捕獲してきたタラバガニ

 そして昭和15年に末っ子として生まれたのが大鵬(納谷幸喜)さんだった。
 やがて戦況が悪化してくると、父親のボリシコさんは外国人居留地に移されてしまう。


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 8月15日。日本では終戦といっているが、実際にはまだ戦闘が継続中で、ソ連軍は樺太を南下してくる。

 8月19日。大鵬幸喜の母親・納谷キヨさんは、外国人居住区に隔離されている夫のボリシコさんに会うため北へ向かう。
 しかし、北海道への引揚げ船の出航は翌日と迫っていた。

 ソ連軍から逃げるため、樺太在住の日本人はどんどん街道を南下していく。
 納谷キヨさんもこれ以上とどまってはいられない。
 結局、夫に会うことができずに、大泊へ引き返すことに。


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 8月20日。引揚げ船「小笠原丸」は大泊を出航し、大鵬一家は稚内で下船。
 しかし、小樽に向かった同船は留萌沖でソ連の潜水艦に撃沈されてしまう。
 彼らが小樽まで行く計画であったならば、その後の大横綱・大鵬は生まれなかった。
 間一髪で一家が助かったのである。

 南樺太はソ連軍によりどんどん占領され、樺太はサハリンに。
 宗谷海峡は断絶の海となった。

 以後、ボリシコさんは大鵬ら家族と会うこともできず、1949年には反ソ宣伝を理由に自由はく奪刑に処され、54年、恩赦で出所したあと60年に肺炎で亡くなった。


 バルチカという名のビール。バルチックのことだね。


 戦後の横浜ではGIベイビーといって、アメリカ兵と日本人女性の間に混血児がたくさん生まれた。
 なかには両親の愛情に育まれ、立派に育った子供たちもいたであろうが、アメリカ兵が帰国したあと施設に入れられたり、あるいは闇に葬られたりした嬰児も多かったと聞く。

 そんな日米混血児に比べたら、大鵬は戦争によって父親と生き別れになってしまったが、その後は相撲界で大活躍し、最後は偉大な横綱となったわけで、それなりに充実した人生だったのではないだろうか。

 8月17日には釧路市巡業で「大鵬追悼セレモニー」も行われた


 (注)銅像の除幕式に行ったわけではありません。写真は6年前にサハリンで食べたものの一部です。


 

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