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Channel: 中華街ランチ探偵団「酔華」
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関内牧場

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 5月下旬のことだが、関内を歩いていたら、こんな光景に出くわした。

 この空き地を見て思い出したのが、戦後にあった「関内牧場」。
 牧場っていっても「平田牧場」なら美味しそうだが、関内牧場には牛・豚などはいなかった。ぺんぺん草の生える単なる空地だったのだ。

 横浜の接収解除は昭和27年から始まったのに、30年代に入っても関内のあちこちに空き地があった。
 なかなか復興が進まず、まるで牧場のようだということで、人々はその光景を揶揄して「関内牧場」とよんでいたのである。


 私自身は昭和30年代の関内を体験していないのだが、40年代後半でも空き地があったことは覚えている。
 
 馬車道でこの空地を見て、こんなことを思い出した次第なのだが、さて、ここに建っていたビルは何だったっけ?
 一瞬、「あれ?」って思ったけど、すぐに思い出した。
 馬車道商栄ビルだ。角の店は「清水平安堂薬局」だった。


 解体される前の馬車道商栄ビル。これは防火帯建築で、巨大なLの字型をしていた。


 相生町通り側の側面。
 このビルは昭和30年代初めに建てられたはず。それから60年。いよいよ解体され、再び関内牧場のような光景が出現したというわけだ。
 ただ、戦後間もなくの牧場と違って、こちらは新しいビルに建て替えるのだから、なんだか希望が持てるよね。

 てなことで、今日は昔の関内牧場を振り返ってみようと思う。


横浜市のホームページより
 米軍によって占領された関内の中心部。モータープールとして利用されていた。


『横浜市史Ⅱ 資料編7 戦災復興と都市計画』より
 関内牧場が出現するに至った原因は、これだ。
 昭和27年から接収解除が始まったのだが…

 上の地図には昭和28年現在の接収解除の状況が描かれている。関内のあちこちで土地が返還されているが、そのあとの復興のめどが立っていないのだ。


岩波写真文庫 シリーズ都会の記録1952~1957
 全国の宅地接収面積の62%が横浜に集中していた。
  

 遠景に男が一人。あとは犬しか歩いていない弁天通。


 あてもなくぶらつく失業者か…。左端には被災を免れた電気の「共栄社」の看板が見える。


 上の撮影場所から少し右に向けたところ。右の大きなビルは旧十五銀行(のちに神奈川新聞社が入る)。


 昭和30年代初めの関内。
 尾上町交差点の周囲には店が建ち始めているが、そこから少し離れると空白地帯が残っている。



 市役所はまだ建っていない。南高校もここに建設する計画だったようだね。
 最終的には、右側の3ブロック全部が市役所の用地となり、現在の庁舎が建った。


 
 これは相生町5丁目の地図。赤線で囲んだ部分が馬車道商栄ビルである。
 道路を挟んだ向かい側に「三井商店」というお店が見える。これは酒屋だ。
 牧野イサオの書いた本を読むと、ここは当時、大きな角打ち場だったという。港湾労働者が三井商店で酒を買い、隣接する空き地で呑んでいた。そこにはオデンの屋台も出ていたというから、素敵な空間が広がっていたに違いない。
 
 今の時代では空き地があっても簡単には入れないので、その中にビールケースを積み上げて酒を呑むなんてことは無理。
 残念だが酒屋の中で呑むしかない。


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