先々週のことだが、中華街でランチを食べたあと、本町通りにある外車販売店「ヤナセ」の前を通ったら、なんとこんな姿になっていた。
建物は完全になくなり、土地の掘削が始まっていたのである。
こういう光景を見ると黙っていられない。
![]()
掘られた土地をくまなく観察する。
赤茶けたものはレンガじゃないのか…
![]()
コンクリートの破片に混じってレンガが出土していた。
![]()
このまま工事を進めていってしまっていいのだろうか。
![]()
「ヤナセ」の斜め向かい側には神奈川芸術劇場がある。
![]()
この建物を建設するにあたって掘削している際に、地下から山下居留地の遺構が発見されている。
![]()
かなり大がかりな遺構であったようで、発掘後、これを横浜市の文化財として保存してほしいとの要望がたくさん出たという。
![]()
だが、ここには新しい劇場とNHK放送会館ができることになっていたので、市民からの保存要望はこんな形で残されることになった。
![]()
こちらは、その神奈川芸術劇場の隣地。
いままで外車がたくさん並んでいた所だが、この日見たときには1台もなかった。
![]()
そして、奥の方には重機が!
とすれば、地下から再び遺構が現れるはずだ。
![]()
これは神奈川芸術劇場の敷地角にある48番館。一部ではあるが居留地時代の建物が残っている。
![]()
もう20年ほど前のことだが、これは廃屋のような状態で何かの倉庫として使われていた。
当時、関内のレトロな建築を訪ね歩いていた私は、アーチ型の入口上部にある四十八番と書かれたキーストーンを見て、こりゃあ作り物ではなく明治時代の本物ではないかと確信した。
![]()
その頃に撮影した48番館。
![]()
表面がモルタルで塗られていたが、48と四十八という文字がうっすらと見えていた。
そこで私は所有者の神奈川県庁に連絡し、この建物の調査をお願いしたのだが、全く相手にされなかった。
それから何年かして、この倉庫が居留地時代の本物の48番館であるという新聞記事が出た。やっぱりそうだったのだ。
ここまで書いてきて、関内で発掘されたものをいろいろ思い出した。
今、本町通りに面して建っている山下町消防出張所は、以前、レストラン「かをり」の向かい側にあったのだが、それが移転するとき現場を発掘していたら、旧居留地消防隊地下貯水槽が出てきた。と同時に、大型の徳利やお猪口なども出土したという。
そんな情報を関係者から聞き、私は現物を見に行った。消防隊の人たちがこれを使って呑んでいたのかと思うと、時空を超えてなんだかジ〜ンと来るものがあった。
徳利でまた思い出した。あれは横浜公園横の日本大通りを改修しているときのことだ。地下から徳利が出てきたという。これは現物を見ることができなかったのだが、写真で確認することはできた。
こんな所になぜ徳利が埋まっていたのか。写真を見せてくれた人の話によれば、昔ここには遊郭があったので遊女が投げ捨てたのではないかとのことだった。
たかだか150年ちょっとの歴史しかない関内の埋め立て地であるが、こうして地下を掘れば当時の生活関連の品々が発見されるのだ。
あのときの徳利はどうしたのだろうか……。
←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね
建物は完全になくなり、土地の掘削が始まっていたのである。
こういう光景を見ると黙っていられない。

掘られた土地をくまなく観察する。
赤茶けたものはレンガじゃないのか…

コンクリートの破片に混じってレンガが出土していた。

このまま工事を進めていってしまっていいのだろうか。

「ヤナセ」の斜め向かい側には神奈川芸術劇場がある。

この建物を建設するにあたって掘削している際に、地下から山下居留地の遺構が発見されている。

かなり大がかりな遺構であったようで、発掘後、これを横浜市の文化財として保存してほしいとの要望がたくさん出たという。

だが、ここには新しい劇場とNHK放送会館ができることになっていたので、市民からの保存要望はこんな形で残されることになった。

こちらは、その神奈川芸術劇場の隣地。
いままで外車がたくさん並んでいた所だが、この日見たときには1台もなかった。

そして、奥の方には重機が!
とすれば、地下から再び遺構が現れるはずだ。

これは神奈川芸術劇場の敷地角にある48番館。一部ではあるが居留地時代の建物が残っている。

もう20年ほど前のことだが、これは廃屋のような状態で何かの倉庫として使われていた。
当時、関内のレトロな建築を訪ね歩いていた私は、アーチ型の入口上部にある四十八番と書かれたキーストーンを見て、こりゃあ作り物ではなく明治時代の本物ではないかと確信した。

その頃に撮影した48番館。

表面がモルタルで塗られていたが、48と四十八という文字がうっすらと見えていた。
そこで私は所有者の神奈川県庁に連絡し、この建物の調査をお願いしたのだが、全く相手にされなかった。
それから何年かして、この倉庫が居留地時代の本物の48番館であるという新聞記事が出た。やっぱりそうだったのだ。
ここまで書いてきて、関内で発掘されたものをいろいろ思い出した。
今、本町通りに面して建っている山下町消防出張所は、以前、レストラン「かをり」の向かい側にあったのだが、それが移転するとき現場を発掘していたら、旧居留地消防隊地下貯水槽が出てきた。と同時に、大型の徳利やお猪口なども出土したという。
そんな情報を関係者から聞き、私は現物を見に行った。消防隊の人たちがこれを使って呑んでいたのかと思うと、時空を超えてなんだかジ〜ンと来るものがあった。
徳利でまた思い出した。あれは横浜公園横の日本大通りを改修しているときのことだ。地下から徳利が出てきたという。これは現物を見ることができなかったのだが、写真で確認することはできた。
こんな所になぜ徳利が埋まっていたのか。写真を見せてくれた人の話によれば、昔ここには遊郭があったので遊女が投げ捨てたのではないかとのことだった。
たかだか150年ちょっとの歴史しかない関内の埋め立て地であるが、こうして地下を掘れば当時の生活関連の品々が発見されるのだ。
あのときの徳利はどうしたのだろうか……。
